出石尚三セレクション[第3回] – 島根県益田市で編まれた高級ニット – いと雅びなる二十一世紀の打掛

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Selection 1

つる薔薇
打掛は余情の美である。それはあまりに深い想いが言葉にはならないのに似ている。女の軀を隠そうとすればするほど、あらわれてしまう艶めかしさと貴やかさのハーモニーとでも言えば良いだろうか。
840,000円(税込)

 

時は元禄の頃、衣裳競べがあったという。

元禄年間(1688〜1704年)は、五代将軍徳川綱吉の時代で、江戸期のなかでもことに文化爛熟であったことはよく知られている通りである。

さて、元禄の衣装競べは京都で行われた。

京の東山。いずれも豪商の妻たちが、我こそはと自慢の衣裳に身を包んで参加したのである。大阪、難波屋十右衛門の妻。江戸、石川六兵衛の妻。京、中村内蔵之助の妻。難波屋の妻は、緋倫子の地に京名所を金糸銀糸で刺繍した着物。石川六兵衛の妻は南天の絵柄。その着物いっぱいに描かれた南天の実は珊瑚を縫いつけたものであった。中村内蔵之助の妻は白無垢の下着に黒羽二重の着物を重ね、古渡り(舶来品)の金襴の帯を締めた姿であったという。

そして評議するまでもなく、中村の妻の白と黒と、金襴の簡素美が他を圧倒したのである。中村内蔵之助は、当時京都にあった銀座(貨幣鋳造)の主で、尾形光琳の援助方でもあった人物。白無垢に黒羽二重、そして金襴の帯の組み合わせは、実は光琳の考えによるものであった。

この元禄衣装競べの主役となったのが、すべて小袖(こそで)であったことは言うまでもないだろう。小袖、今で言う着物のことである。打掛について語ろうとする時、まず小袖にふれなくては話が進まないのだ。

小袖が活躍しはじめるのは、室町時代後期のことである。それ以前には、小袖は下着の一種であった。小袖はその名の通り、当時としては慎ましやかな袖であって、重ね着をするにふさわしい衣裳であったのだ。平安時代、高貴な女性が何枚もの衣裳を重ね着したのは、よく知られている通りであろう。まず小袖を着、単衣(ひとえ)を重ね、袿(うちき)を重ね、打衣(うちぎぬ)を重ね、さらに表着(うわぎ)を重ね、唐衣(からぎぬ)を羽織った。平安の頃の女たちの衣裳の愉しみ方が、いかに念入りで繊細であったかが想像されるに違いない。

それはともかく、そもそもは下着のひとつであった小袖が、独立したひとつの衣裳になることで、今度はさらなる工夫が加えられてゆくのである。言うまでもないことではあるが、小袖の着つけは帯を結んで一応の完成をみる。ところがその完成した衣裳の上からさらに重ねるのが、打掛なのだ。ということは、打掛のなによりの特徴は、帯の束縛を受けない点である。自由であり、自在である。その意味では西洋のローブ、もしくはマントに似ているかも知れない。

 

Selection 2

椿
〝落ちざまに水こぼしけり花椿〟むかし芭蕉がそう詠んだように、椿の花には誰もが瑞々しさを感じてしまう。生き生きとして新鮮な光を放つ。そしてまた椿の花言葉が「気取らない美しさ」であるのも、面白い。
840,000円(税込)

 

天保元年(1830年)刊の、喜多村信節(のぶよ)著『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』には、次のように説明されている。

《武家の女はかの小褂の代に小袖を打かけて着るを打ちかけともかいどりとも云ふ打かけたるに小袖のつまのひらくを取おさめて手に搔いとる意なりといへり》

打掛の別名が「搔取(かいどり)」であったことがまず分かるだろう。そしてここでの説明に迷うなら、もともとは小袖の上に小袖を重ねたとも受け取れる。普段着であれば小袖だけでも充分なところに、さらに重ねるわけだから、やがてそれが礼装だと考えられるようになったのも当然であろう。

すでにふれた通り打掛には帯を締めない。読んで字のごとく、打掛だけの衣裳である。しかも袖も、身丈もゆったりと仕立てる。と、当然、立つ時、座る時、また歩く時、自分の手で褄(つま)を取らなくてはならない。褄とはより正確には堅褄(たてづま)のことであって、衣裳の前単部分のことである。手を添えなくては完結しない衣裳。ここに余裕と優雅さが生まれる。いや、いっそ威厳と色気と言って良いかもしれない。

とりあえず打掛(搔取)を着ている時には、日常の家事などに手を割くことはできないのである。また褄を取る手の、指の形、肩の動きに、千年ほど前の男どもは胸をときめかしたのに違いない。また後に裾を引く姿も雅びであっただろう。

作家、壺井栄(1900〜1967年)が、1955年に発表した小説に、『裲襠(うちかけ)』がある。その一節を引いてみよう。

《ことに松竹梅をぬいとった朱珍のうちかけは、貧しい村の人々の目をうばった。衣裳見物にやってきた村の女たちは、衣桁にうちかけた裲襠の赤い塩瀬羽二重の一寸ぶきをみただけでも気をのまれてさわってみることもできなかった。あやからせてもらいたいにも、あまりに遠いのぞみである。/—食い裂きたいような羽二重の、総裏じゃった—/そんなことよりいえなかった。》

「朱珍」は繻子織(しゅすおり)の絹地。「塩瀬羽二重」は厚地、畝織り羽二重のこと。さらに「羽二重」とは、緯糸経糸(たていとよこいと)ともにまったく撚りをかけない糸で織上げる、日本独自の絹地。また「一寸ぶき」にも多少の説明が必要であるかも知れない。

「ふき」にはふつう「𧘱」の字を当てる。着物に裏を張る場合、意図的に少し裏地を外に出すやり方。たいていの場合、この縁の部分に綿を入れてふくらみを出したりする。「一寸ぶき」というのだから、約3センチほど裏地を表に出しての仕立てになっていたのであろう。また、総裏に羽二重を使うのは、豪奢この上ない配慮であったこと、言うまでもない。そしてこれは赤い打掛だった。本来、打掛は白、赤、黒が正式とされた。むろんそれぞれの地色の上に花蝶風月などの文様を遊ばせたのであるが。

『裲襠』に描かれた打掛は、地方の庄屋、福本屋八郎右門のものであるが、少なくとも五代の女たちによって受け継がれるのだ。幕末、明治、大正、昭和・・・・と。打掛そのものの歴史はざっと千数百年のことであろうが、事実、百年や二百年は着ることのできる雅びの極致なのである。

その雅びの中の雅びの衣裳である打掛に、史上始まって以来の革命を試みたのが、齋藤都世子三代目齋藤佳名美なのだ。打掛の美はそのままに、齋藤独自の糸で、編むことを思いついたのである。その手法はまことに原始的で、熟達の編み手がゆっくりと丁寧に編んでゆく。ひとつの打掛を仕上げるのに、何日も何日もかけて、編む。それは緻密に編まれた打掛なので、かなりの重量感がある。それゆえドレープがまことに美しくあらわれる。ニットの特性として柔軟であり、しわもほとんど気にしなくても良い。これほどに絢爛たる打掛を、畳むことができ、運ぶことができるのだ。

もちろん婚礼衣裳として着ることもでき、新しいイヴニング・ローブとしても最適であろう。また時と場合によっては、婚礼衣裳として使った後、若干の修正を加えてドレス感覚としても着ることができる。まさに、21世紀の打掛誕生といって良いだろう。

 

Selection 3

埋もれ薔薇
「大きなる紅薔薇の花ゆくりなくばつと真紅にひらきけるかも」とは白秋の詩の一節。そして薔薇の花言葉は「美」、「愛」、「恋」。この眩しすぎるほどの薔薇をあえて埋もれ柄で表現した淑やかさが、憎い。
840,000円(税込)

 

出石尚三 1944年生まれ。64年にファッション界に入り、以来ファッションをテーマにデザイン、コンサルティング、評論など広い分野で活躍。著書に「男はなぜネクタイを結ぶのか」(新潮社)、「ブルー・ジーンズの文化史」(NTT出版)など多数。近著「スーツの百科事典」(万来舎)は、男性のスーツ姿がいかにあるべきかを説いて好評。

 

 

●問い合わせ 株式会社エランセ
http://www.saitotoyoko.com/counseling.html

撮影/二石友希

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