私の歩んだ日々 夢の途中で [連載第1回] 祖母の導き |森山 寛(東京慈恵会医科大学名誉教授 東京慈恵会医科大学附属病院 前病院長)

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当時は本当に食えなくて
それでは困ると医者を目指した

 私で医者が3代目になります。森山という姓の通り、もとは栃木の材木商でした。祖父は当時の千葉医学専門学校を出て内科医になったのですが、往診時に馬車から落ちて30代の半ばで亡くなりました。

 この祖父、森山福三郎の妻ハナは、その時5歳と2歳の息子を抱えていました。私の父と叔父です。ふたりの幼子を抱えて食べていくには何か手に職を持った方がいいと考えたのでしょう。そこから勉強して歯科大学に入学しました。当時25〜26歳だったと思います。学費は足利で歯科医院を開業していたお兄さんが出してくれました。実家に叔父を預け、父を背負って授業に出たそうです。それは、以前NHKで放映されたドラマ「おはなはん」にとても似たストーリーなんですね。祖母は祖父の夢を追いたかったのでしょう。本当は医学部に行きたかったそうです。でも、さすがに子どもを育てながら医学部を出るのは難しいですから、それで歯学部にしたと言っていました。

 女手ひとつで子どもを育てながら歯学部を卒業し、歯科医院に勤めてトレーニングを積んでから蒲田に自分の歯科医院を開業しました。そこで父親と叔父を育てたのですが、空襲で焼け出されて江戸川に引っ越したのです。その江戸川で、昭和23年2月に私が生まれました。6年後に弟が生まれましたが、彼は33歳の若さで亡くなっています。

 父は東京医科歯科大学を出てから病院に勤めた後、昭和36年頃に小岩に医院を開業。母親の兄弟も薬剤師で、群馬で薬局を営んでいました。見渡せば医療関係者ばかりという環境でしたが、私は医学に全く興味がなく、ごく普通の子どもでした。高校受験では私立高校をすべて落ちてしまい、そのため公立高校は2ランク落として入学しています。

 高校に入り、医者になる気もなかったから地学部に席を置き、隣の市川まで出かけていって、化石や土器をせっせと掘ったり拾ったりしていました。市川には有名な貝塚があって、当時は農家の庭先でも言えば嫌な顔ひとつしないで入れてくれました。今にして思えばとても良い時代でしたね。街はすすけてみすぼらしく、国全体が貧しかったけれど、物事に対して誰もがずっと鷹揚でした。

 将来のことについてあるとき父親と話す機会があり、そこで考古学をやりたいと話しました。すると考古学はいいけど食えないよ、と。森鴎外や北杜夫など、医師で副業を持つ人もたくさんいるし、考古学は趣味でも出来るだろうと言うんです。その当時は本当に食えなかったので、それでは困るなと思ったんですね。それがきっかけで医者を目指すことを意識するようになったのです。

 実は、我が家で私を医者にさせたかったのが祖母なんですね。自分が医者になりたかったという思いからかもしれません。私の成績を一番気にするのも祖母でしたから。

 祖母は明治の人ですから、気骨があるかちっとした人でした。82歳まで歯科医院で患者を診て、94歳までかくしゃくとして生きました。祖母の歯科医院が実家を兼ねていたこともあり、診察室の雰囲気は肌で感じていましたし、父が夜中に慌ただしく往診に出かけていく姿も日常でしたから、私の考え以上に体は医者になることを受け入れていたのかも知れません。(続く)

_JQR0026森山 寛(もりやま ひろし)
東京慈恵会医科大学名誉教授、東京慈恵会医科大学附属病院 前病院長、米国耳鼻咽喉科・頭頸部外科学会名誉会員、欧州鼻科学会名誉会員、日本耳鼻咽喉科学会副理事長、全国医学部長病院長会議顧問。鼻副鼻腔疾患に対する内視鏡手術の国際的パイオニアのひとり。


撮影/管 洋介 文/JQR編集部

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