第2回:耳鼻科医を目指した頃

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私の歩んだ日々

夢の途中で

撮影/管 洋介 文/JQR編集部

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手術に興味があって
脳外科に行きたいと思ったけど、
ひとりですべてができる
耳鼻科医を選んだ

 医学部をいくつか受けたけれど、結局、慈恵会医科大学しか受からなくて。試験ができたと思った大学に落ちて、できなかった慈恵に受かった。不思議なものです。

 当時の大学の授業は今よりオーソドックスで緩かったですね。勉強はしていたけど学生生活を楽しむ余裕がありました。ユニークな先生も多くいて、学生のことなどお構いなしに、黒板にだぁーっと書くだけだったり。そんな授業は出席カードを書いて、あとは教室の後ろでずっと寝ていたものです。解剖の先生で、口頭試験を軒並み落とす先生もいたなぁ。大抵4〜5回目で通したけどその試験は大変で。いつでも来ていいというので、都合のいい時に押しかけて試験を受ける。5分くらい喋っていると、「はい、また勉強しなさい」って。その先生は、何とお正月でも面接を受け入れていたんです。厳しいけれど、学生と親身に接する先生が多かったようですね。

 医学部の試験は長丁場で、期末試験なると30〜40日間も続きます。医学部は学部制だったから、単位をひとつでも落とすと留年になるため、試験だけは必死でした。当時は筆記試験に加えて面接試験もあって、体力との勝負でもありましたね。

 5年生の時に成績が上位3位に入り、特待生として15万円ほど授業料が免除されました。卒業時には、5年6年の成績が優秀だったと臨床賞をもらっています。3年4年の基礎的な学業が良かった基礎賞と、全体の成績が優秀な慈大賞があって、3つの賞がそれぞれ1名に与えられたのです。

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森山 寛

東京慈恵会医科大学名誉教授
東京慈恵会医科大学附属病院 前病院長

東京慈恵会医科大学附属病院 前病院長、東京慈恵会医科大学名誉教授、米国耳鼻咽喉科・頭頸部外科学会名誉会員、欧州鼻科学会名誉会員、日本耳鼻咽喉科学会副理事長、全国医学部長病院長会議顧問。鼻副鼻腔炎に対する内視鏡手術の国際的パイオニアのひとり。

 基礎はまるで面白くなかったけれど、臨床は病気そのものと向き合うので、興味が持てたのですね。実際、5年6年になって内科学を学ぶと、病気がとても身近になりました。いろんな患者さんを直接診ることで、かなり具体化するじゃないですか、だから面白い。その時になって、やっぱり病態を調べるんだからもうちょっと薬理学などの基礎を勉強しとけばよかったな、とかなる訳です。

 臨床実習で人工透析を回っているときに、ある腎不全の若い患者さんが亡くなりそうになって、そこで1週間泊まり込みで付き添いました。人工透析って不思議じゃないですか? 自分の血液をぐるぐる回し、血液の老廃物を除去する。凄いんだなぁって思いながら診ていた記憶がありますね。

 患者の症状をしっかり観察し、この病気は背景にこういうのがあると考察する人は内科系に行くことが多い。私は手術も好きで、実は脳外科に行きたい気持ちもあって。だけど親父も耳鼻科だったから最後は耳鼻科でいいや、なんて感じでした。

 でも、耳鼻科はそれはそれで面白いですよ。内科的なところもあるし外科的なところもある。耳鼻科の手術は器用な人しかできないと思われがちだけど、それは全く嘘ですね。私は小学校の時の図画工作はいつも3ぐらいでしたから。プラモデル造るのもあまり上手くないし。だけど、手術はまた違うのですね。

 私が昭和42年に慈恵に入学し、医学部生活を送ったのはいい時代でした。日本が高度成長に入った頃です。だから、誰もがゆったりしてたんですね。医療経済も逼迫していない。病院も細かなことを言わずとも稼げたし、施行された国民健康保険が順調で、みんなが病院に行ける。この20年で医療の現場も大きく変わりました。医療・医学の急激な進歩により学生たちが学ぶ負担が限界に来ているのではないでしょうか?(続く)

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