空飛ぶ鉄の玉で金を獲る – オリンピックのメダルを取り続ける砲丸づくりの名工

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スポーツにおける「道具」というのは、先人たちの記録を塗り替えるための大きな要素であり、その偉業を陰で支える道具作りの職人がいることは、周知の事実である。個体や能力にしっくりと馴染む道具を使いこなして初めて、選ばれし者=選手の持つ力が十二分に発揮されるのだ。北京オリンピックで各国の選手が着用した水着も、次々と大会記録が更新されたことから、その機能や効果について議論が沸き起こり、注目されたことは記憶に新しい。

また、一流のスポーツ選手はみな、道具の手入れは自分自身で行なうという。唯一無二の自分仕様の道具は、いわば企業秘密であり、他人に触らせることを嫌う選手が多いというのも頷ける。

さて、砲丸投げにおいて、この「自分だけの一球」というものが存在しないことは、あまり知られていない。そして、砲丸投げがオリンピックで行なわれる最初の競技であることもまた、日本ではあまり知られていない。

現在の砲丸の国際規格の重量は、男子用7.26kg、女子用4.0kgと決められており、オリンピックでは、この基準をクリアし公式と認定された5社のみの砲丸が使用される。選手たちは通常、大会が始まる約1週間前には現地入りし、サブグラウンドに置かれた公式の砲丸を初めて手にして練習を行ない、本番で使用する球を決める。つまり、普段から愛用している砲丸をそのまま本番で用いることはないのである。だからこそ、本番直前の砲丸選びは、真剣そのものとなる。砲丸によって1〜2mの飛距離の差が出ることを、選手自身が一番よくわかっているからだ。

その砲丸作りの名匠が、日本にいる。辻谷工業・辻谷政久さんだ。辻谷さんの作った砲丸は、アトランタ(1996年)、シドニー(2000年)、アテネ(2004年)のオリンピックにおいて、金銀銅のメダルすべてを獲得している。逆にいえば、これらの大会でメダルを獲った選手すべてが、辻谷さんの砲丸を選んだということになる。

研究に明け暮れる日々

こうなるまでには試行錯誤の長い道のりがあった。

1964年、あるメーカーの社長が、辻谷さんにハードルの製作を依頼した。そのとき辻谷さんが作ったハードルは高さを調節するおもりをワイヤーで結んだ画期的なもので、現在でも全国の90%で利用されることとなった。やがて砲丸も依頼され、軽い気持ちで引き受けたのが始まりだという。

「昔は規定重量を下回らなければ、100gくらい違っていても問題なかったんですけどね」(辻谷さん)

1980年、日本陸上競技連盟も厳しい国際規格が採用されるようになる。すると、許される重量の誤差はわずか20g以内となった。当時日本には10社ほど砲丸を作る会社があったが、ほとんどが撤退してしまったという。

「重さは、測るのも難しいし、削るのも難しいんです。10g削るといったって、目で確認できるわけじゃない。削りすぎたら、仕入れた鋳物が無駄になるだけですからね」

辻谷さんは、独自の加工マニュアルを作ろうと試みた。職人というのは、100個の品を作るとき、まず10個作ってみてマニュアルを起こし、残り90個を作るのだそうだ。ところが、「どんな精密なマニュアルを作っても、90個のうち20~30個に重量の不良が出てしまった」という。そこでコンピュータ制御のNC旋盤を扱っている知り合いの工場にも作ってもらったところ、今度は70%以上が不良品になってしまった。

辻谷さんは1年かけて丁寧にマニュアルを作っては試し、作っては試しを繰り返した。ところが「作るたびに重量が変わるんですよ。マニュアルが全然通用しないことに気づいて、困りましたね」と振り返る。

「それでも、一度受けた仕事を、そう易々と『できません』とはいえませんからね」

辻谷さんの職人魂に火が付いた。

一から出直す覚悟で修業

今度は、オリンピックで入賞した砲丸を7か国から取り寄せ、2つに割ってみた。

鋳物は不純物が多いので、入賞した砲丸の成分を調べるためだった。しかし、割ってみて驚いた。中に空洞があるものや、鉛を入れているものもあった。海外の砲丸がカラフルに塗装されていることの意味も察した。あとから重さの微調節をし、その跡を隠していたのである。それを見て、辻谷さんは目標を新たにした。

——こんな細工をした砲丸に負けたくない。自分は、ごまかしのないものを作りたい——。

ごまかしのないものを作りたい

そこで、鋳物について一から勉強し直そうと、地元の鋳物屋さんで修業することを決心する。埼玉県川口市は昔から鋳物の街として成り立っており、腕のいい職人がいたことも幸いした。

「自分の技術が通用しない理由がわかったのは、1年くらい経ってからですね」と辻谷さんは語る。鋳物の材料は、新しい銑鉄40%、廃品業者がかき集めてきた鋳物45%、建築現場などから出てくる一般鋼材15%。これらが一緒に溶かされて出てくるときには、様々なものが混ざっていることになる。溶解した鋳物は時間を追って温度が下がるが、その下がり方もまた、季節や状況によって大きく異なるため、収縮率が変わり、仕上がりの密度や大きさも常に変化するのが当然だということに気付いた。

さらに、鋳物は固まるときには上部の密度が低く、下部は高くなるため、そのまま均等に丸く削り出しても、重心が中心にこないことがわかった。この「重心を中心におくこと」こそが、じつは砲丸作りにおいてもっとも重要で、もっとも困難な作業なのである。良い砲丸の条件とは、重さが規格内におさまっていることではない。重心が中心にあることだという。鉄の塊は重心が1mmずれることで、まっすぐ飛ばなかったり、飛距離が伸びなかったりする。辻谷さんは、重心を中心におくことを念頭に置き、重量を規格内におさめることを考えた。

そうなると、見た目に均一なものを作るのが得意なNC旋盤の出番はなく、頼みの綱は職人の勘のみとなる。まさに門外不出の「匠の業」である。

その業が、「音」「色」「ハンドルから手のひらに伝わる圧力」だ。

辻谷さんは、旋盤工としての長年の経験から、音で鉄の硬さが判別できる。素人にはその差は分かりづらいが、辻谷さんは5段階の音の違いを聞き取っているという。硬い部分を削っていると音は高く、柔らかい部分では低くなる。球の中で、硬い部分と柔らかい部分がある場合、球の重心と中心が違うということだ。硬いほうが比重が重いので、そちらをより多く削ることで、重心と中心をぴたりと合わせることができる。

また、鋳物は硬い部分を削ると表面が光っているのに対し、柔らかい部分は少し鈍い色をしている。辻谷さんは、その色艶を見極める能力にも長けている。

最後の決め手が、切削機械のハンドルから伝わる圧力を感じ取ることだ。実際、辻谷さんは砲丸を丸く加工していく際、ほとんど砲丸を見ない。ならい旋盤で丸く削られていく途中で、その音を聞き、手から伝わる圧で硬さを確信し、出来上がりの重心を見極めているのである。微妙な硬さを感じ分けるのだから、手は大事にしている。辻谷さんは、手にハンドクリームを塗り、手袋をして寝ているという。その柔らかさは「職人の手ではない」といわれるそうだ。「自分の体を品物に合わせることも、大切ですよ。そうやって徹底的に研究すれば、みんなができないようなものも作れるようになるんです」と辻谷さん。

こうして3つの勘を確かなものにしたとき、初めて100%近く同じものができるようになった。そして、世界陸上競技連盟のあるモナコへ自身の砲丸を持参したところ、晴れて公式に認定されることとなった。

悔しさをバネに

世界陸連で砲丸の質の良さを見込まれ、審査員にお墨付きをもらった辻谷さんは、1988年ソウルオリンピックの会場に、規定数納品をしていた。そして、砲丸投げの決勝戦を自宅のテレビで見ていた。辻谷さんの砲丸には色がついていないので、見ていればすぐに自分のものだとわかる。しかし、テレビに映るのはみなカラー砲丸ばかり。辻谷さんの砲丸は誰も使用していなかった。

「いくらほめてもらったって、使われなければ敗北ですよ。完敗です」

辻谷さんは、当時の気持ちを悔しそうにそう語った。

その4年後、バルセロナオリンピックに納めた辻谷砲丸には、独特の工夫がしてあった。表面に細かい筋を入れたのである。辻谷さんは、バルセロナオリンピックが開催される2年前、50人ほどの指紋をとらせてもらい、人間の指紋の特徴を研究した。そして、その指紋にフィットするような筋を砲丸の表面に施したのである。そして、筑波大学の陸上部の砲丸投げ選手に使ってもらい、感想を聞いていた。予想通り、「筋入りは投げやすい」という意見が圧倒的に多く、今回の作品には自信を持っていた。そして4年前同様、テレビで決勝戦を見守った。しかし、やはり決勝戦で辻谷さんの砲丸を使う選手は確認できなかった。

ところがその後、競技に使う道具を管理する係の人から、「サブグラウンドに置いてあった辻谷さんの砲丸が、前日にはすべてなくなっていた」ことを伝え聞いた。選手にはその使い勝手の良さが、認知されたのである。

さらに4年後のアトランタオリンピックでは、なんと決勝に進出した8人の選手全員が辻谷さんの砲丸を使い、記録を打ち立てた。

仕掛けを疑われる側に

こうして、辻谷砲丸は世界から脚光を浴びることとなる。ヨーロッパのメディアはこぞって辻谷さんの工場を訪れ、取材をするようになった。「なぜ、あなたの砲丸は飛ぶのか」という質問に「手作りだからだ」と答えて、納得するはずがない。中に何か仕掛けがあるのではないかと疑われ、2つに割って見せてくれとまでいわれた。奇しくも、10年前に辻谷さんが行なったことを、今度は請われているのである。

「タネも仕掛けもないことを、割って見せてあげましたよ」

目の前で2つに切り離したことで、辻谷ブランドはより信頼を高めることとなった。

こうして、2000年シドニー、2004年のアテネオリンピックでも、決勝戦ではつねに辻谷さんの砲丸が使用され、世界記録も塗り替えられていくことになる。ただ一度、辻谷さんが提出しなかった北京オリンピックでは、砲丸投げの記録は更新されなかった。

日本の技術を高めるために

世界的に砲丸の品質が認められた辻谷さんに、アメリカの大手スポーツメーカーから技術指導の依頼が舞い込んだ。一度断ったが、1か月後に代理人を通じて週給20000ドルという賃金を提示され、悩んだ末にきっぱりと断った。

すると翌々年、今度は世界陸上競技連盟から「筋入りの砲丸は違反なので、筋を取るように」との通達が来たという。別の形での圧力ともとれる。以来、辻谷さんは砲丸の筋をとったが、その翌年のアテネオリンピックでも実力に変わりはなかった。

なぜ、破格の技術指導を断ったのか。

「そりゃあ悩みましたよ。だけど、今の日本は簡単に技術を海外に教えすぎているんですよ。それで日本の技術が保てるならいいけれど、結果的に経済的見返りもないじゃないですか。日本の中小企業が今どれほど困っているか。

それから、世界一のものを作れたのは、自分一人の力ではないんです。昔、鋳物の町で鉄の勉強をしたときお世話になった工場長や仲間は、私にいろいろな鉄の知識を教えてくれました。しかも、失敗し続けた砲丸の原材料費は一切とらなかった。そういう人たちを差し置いて、自分だけが『アメリカでも成功しました』なんていえないですよ。お金につられて生きるより、義理人情に包まれて生きていったほうが、人生として楽しいじゃないですか」

現在御年77。昔片手で持った自作の砲丸は、今は両手で持っても重く感じるという。あとは、彗星の如く日本人砲丸選手が現れ、メダルを獲ることを祈るばかりだ。

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辻谷工業
埼玉県富士見市水谷東2−57−1
電話:048-472-9524
http://www9.plala.or.jp/tuk-hougan/

photo/Satoru Naito, text/Kyoko Ohtsu

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