3.11を抱きしめて – 東日本大震災・災害復旧ボランティアの現場から- [第3回]

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石巻からはダリの絵画さながらのおぞましい光景は消えていた

 

2011年3月11日。食卓の下にもぐりこみ、落ちてくる瓶やグラスから身を守った私はやがて、津波の惨状を生中継するテレビを観ることになった。現実とは思えぬまま、混乱、恐怖、悲痛を体験したひとときだった。その4日後、足は汚泥にまみれ、目は見えていながらも脳は理解することが出来ぬまま、私は現場を撮影していた。しかしビデオカメラは、滅茶苦茶になった街、本来は隣り合うはずがない船、車、家財道具がいっしょくたになった様子、燃える車両から立ち上る臭い、津波が残した見渡す限りの泥水から何とか引き上げた遺体を黙々とシートに包む自衛隊員の姿、鳴り響くサイレンの音が本当はどのようなものであるかを伝えることができなかった。ましてや、寒さと雪の凍えるような冷たさを伝えることなど望むべくもない。

助かった人々の体験談を聞く事で、私は改めて人生を学んだ。私が懸念していたのとは逆に、人々は経験したばかりの辛苦を世界中に伝えたいと願っており、自分たちの話を聴いて全世界に伝えて欲しい、と私たちに頼んだ。涙に暮れつつ、その一方で生きている喜びを噛みしめつつ、彼らは私に支援を求めた。これは、想像を絶するほど大変な仕事である。

この支援要請を受け、私は数日後に再び戻ってきたが、今度は瓦礫を片付けるための道具を携えた頑強な助っ人を連れてきた。その後に合流したボランティアを含めて私たちは、東北地方、なかでも被害が甚大で復旧作業が最も大変な石巻での生活が元通りになるまで被災者を見捨てまい、との強い思いを絆とするチームを結成した。私たちは何軒の家から瓦礫を運び出し、泥をかき出したのであろうか? 黴による家の浸蝕を食い止めるために、何枚の板、どれほどの壁を剥がしたのだろうか?

震災から六カ月を経た今日、石巻の町は見違えるようになった。自衛隊、ボランティア団体、市当局の努力の跡は明らかだ。ダリの絵画さながらのおぞましい光景は消え去り、町は再建途上にある。避難所となった当初は2000人もが身を寄せていた港小学校に残っているのは95人のみ。9月には避難所の役目を終える予定だ。多くの人は仮設住宅に移り住んでいるか、自宅の二階に住んでいるか、市内に小さなアパートを借りるかしている。

しかしながら、最も大変な仕事はこれからだ。再建の仕事だ。町のインフラや住宅は無論のことだが、企業、工場、労働市場を再建せねばならない。すべてが津波で破壊されたからだ。以前から人口の高齢化で悩んでいた石巻から若者が去ろうとしている。海岸沿いの地区が住宅地として復興することは無理だろう。場所によっては約80センチも地盤が沈下しているからだ。将来は不透明だ。

緊急課題はもはや、泥との格闘や家の片付けではなく、再編、モチベーション、希望である。

 

Christine Lavoie-Gagnon(クリスティーヌ・ラヴォワ=ガニョン)
ケベック出身。日本在住17年超。東京でPR 会社を経営。現在は、被災者支援のために立ちあげた組織NADIAの活動のために石巻で過ごす時間が多い。

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